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説明文

1. はぁ 忘れしゃんすな 山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師 はぁ 山が高うて 山中見えぬ 山中恋しや 山憎や はぁ 送りましょうか 送られましょうか せめて二天の橋までも (山中鉄砲獅子踊りの歌詞は割愛) 2. はぁ 忘れしゃんすな 山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師 はぁ 谷にゃ水音 峰には嵐 あいの山中 湯のにおい はぁ 山が高うて 山中見えぬ 山中恋しや 山憎や はぁ 送りましょうか 送られましょうか せめて二天の橋までも 3. はぁ 忘れしゃんすな 山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師 はぁ 谷にゃ水音 峰には嵐 あいの山中 湯のにおい 4. はぁ 忘れしゃんすな 山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師 はぁ 主のおそばとこおろぎ橋は 離れともないいつまでも 5. はぁ 忘れしゃんすな 山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師 夕べ習うた山中節も 今朝は別れの唄となる 6. はぁ 送りましょうか 送られましょうか せめて二天の橋までも 7. はぁ 忘れしゃんすな 山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師 はぁ 谷にゃ水音 峰には嵐 あいの山中 湯のにおい 〈以下、その他の歌詞例〉 はぁ 山が赤なる 木の葉が落ちる やがて船頭衆がござるやら はぁ 恋のしがらみかわいやおつる 泣いて別れた 二天橋 はぁ 桂清水で手ぬぐいひろた これも山中湯の流れ はぁ おまえ見染めた去年の五月 五月菖蒲の 湯の中で はぁ 山中山代粟津の湯でも 惚れた病は治りゃせぬ はぁ 薬師山から湯座屋を見れば シシが髪結て 身をやつす はぁ 桂地蔵さんにゃわしゃ恥ずかしい 別れ涙の 顔見せた はぁ 浴衣肩にかけ戸板にもたれ 足でろの字を かくわいな 〈山中節〉 山中節にはこれらのようにさまざまな歌詞があり、今の時代にも新しく歌詞が作られている。 その昔、船頭として北海道に出稼ぎに行っていた人々が、出稼ぎ先で習い覚えた「松前追分」を歌ったことが始まりといわれている。1年の仕事を終えて、何日も故郷の温泉で過ごす船頭衆が自慢ののどで歌うのを、旅館で働く人や山中町の人がまねをし、それが山中に合った歌に生まれ変わり、育っていった。 盆踊り甚句、やがて座敷歌となり、芸者の米八によって現在のゆったりとした情緒ある節回しに編曲され、各地に広まった。以来、温泉民謡として数百年も大切に歌いつがれている。 『江差追分』や『磯節』などと並ぶ「日本三大民謡」の一つとして紹介されることがある。 歌い始めの声「はぁ〜」は、一日のつかれた体を湯船に入れて、思わず漏れる「はぁ〜」という幸せな声を表している。 〈山中温泉〉 今から1300年くらい前。行基が北陸を行脚中に江沼国菅生神社に参拝し、むらさき色の雲にかがやく辰巳の方角を訪ね、そこで出会った老僧に教えられ温泉を発見した。その後再び、行基の夢に現れた老僧は、自分が薬師如来であることを告げ、温泉が霊泉で体にたいへん良いことを告げた。そこで行基は,この土地に国分寺を建てて、自分で彫った薬師如来の像を納めた。しかし、兵乱のために温泉は荒れてしまった。 1185年ごろの文治年間、能登の地頭、長谷部信連が傷ついた足を温泉につけている一羽の白さぎの姿から温泉を発見し、さらに薬師如来の像を見つけた。そして、そこに国分山医王寺を建ててその像を祭り、湯元に12軒の湯舎を営み始めた。後の時代に、温泉を復興させた長谷部信連をたたえ、湯元の近くに長谷部神社ができた。 江戸時代前期には,松尾芭蕉が旅の途中、弟子といっしょに山中温泉を訪れ、山中での思いをいくつもの俳句にした。
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